きのふは
仲秋十五夜で、
無事平安な
例年にもめづらしい、
一天澄渡つた
明月であつた。その
前夜のあの
暴風雨をわすれたやうに、
朝から
晴れ〲とした、お
天氣模樣で、
辻へ
立つて
日を
禮したほどである。おそろしき
大地震、
大火の
爲に、
大都は
半、
阿鼻焦土となんぬ。お
月見でもあるまいが、
背戸の
露草は
青く
冴えて
露にさく。
……廂破れ、
軒漏るにつけても、
光りは
身に
沁む
月影のなつかしさは、せめて
薄ばかりも
供へようと、
大通りの
花屋へ
買ひに
出すのに、こんな
時節がら、
用意をして
賣つてゐるだらうか。
……覺束ながると、つかひに
行く
女中が
元氣な
顏して、
花屋になければ
向う
土手へ
行つて、
葉ばかりでも
折つぺしよつて
來ませうよ、といつた。いふことが、
天變によつてきたへられて
徹底してゐる。
女でさへその
意氣だ。
男子は
働かなければならない。
――こゝで
少々小聲になるが、お
互に
稼がなければ
追つ
付かない。
…… 既に、
大地震の
當夜から、
野宿の
夢のまださめぬ、
四日の
早朝、
眞黒な
顏をして
見舞に
來た。
……前に
内にゐて
手まはりを
働いてくれた
淺草ツ
娘の
婿の
裁縫屋などは、
土地の
淺草で
丸燒けに
燒け
出されて、
女房には
風呂敷を
水びたしにして
髮にかぶせ、おんぶした
嬰兒には、ねんねこを
濡らしてきせて、
火の
雨、
火の
風の
中を
上野へ
遁がし、あとで
持ち
出した
片手さげの
一荷さへ、
生命の
危ふさに
打つちやつた。
……何とかや
――いと
呼んでさがして、
漸く
竹の
臺でめぐり
合ひ、そこも
火に
追はれて、
三河島へ
遁げのびてゐるのだといふ。いつも
來る
時は、
縞もののそろひで、おとなしづくりの
若い
男で、
女の
方が
年下の
癖に、
薄手の
圓髷でじみづくりの
下町好みでをさまつてゐるから、
姉女房に
見えるほどなのだが、「
嬰兒が
乳を
呑みますから、
私は
何うでも、
彼女には
實に
成るものの
一口も
食はせたうござんすから。」
――で、さしあたり
仕立ものなどの
誂はないから、
忽ち
荷車を
借りて
曳きはじめた
――これがまた
手取り
早い
事には、どこかそこらに
空車を
見つけて、
賃貸しをしてくれませんかと
聞くと、
燒け
原に
突き
立つた
親仁が、「かまはねえ、あいてるもんだ、
持つてきねえ。」と
云つたさうである。
人ごみの
避難所へすぐ
出向いて、
荷物の
持ち
運びをがたり〱やつたが、いゝ
立て
前になる。
……そのうち
場所の
事だから、
別に
知り
合でもないが、
柳橋のらしい
藝妓が、
青山の
知邊へ
遁げるのだけれど、
途中不案内だし、
一人ぢや
可恐いから、
兄さん
送つて
下さいな、といつたので、おい、
合點と、
乘せるのでないから、そのまゝ
荷車を
道端にうつちやつて、
手をひくやうにしておくり
屆けた。「
別嬪でござんした。」たゞでもこの
役はつとまる
所をしみ〲
禮をいはれた
上に、「たんまり
御祝儀を。」とよごれくさつた
半纏だが、
威勢よく
丼をたゝいて
見せて、「
何、
何をしたつて
身體さへ
働かせりや、
彼女に
食はせて、
乳はのまされます。」と、
仕立屋さんは、いそ〱と
歸つていつた。
――年季を
入れた
一ぱしの
居職がこれである。
それを
思ふと、
机に
向つたなりで、
白米を
炊いてたべられるのは
勿體ないと
云つてもいゝ。
非常の
場合だ。
……稼がずには
居られない。
社にお
約束の
期限はせまるし、
……實は
十五夜の
前の
晩あたり、
仕事にかゝらうと
思つたのである。
所が、
朝からの
吹き
降りで、
日が
暮れると
警報の
出た
暴風雨である。
電燈は
消えるし、どしや
降りだし、
風はさわぐ、ねずみは
荒れる。
……急ごしらへの
油の
足りない
白ちやけた
提灯一具に、
小さくなつて、
家中が
目ばかりぱち〱として、
陰氣に
滅入つたのでは、
何にも
出來ず、
口もきけない。
拂底な
蝋燭の、それも
細くて、
穴が
大きく、
心は
暗し、
數でもあればだけれども、
祕藏の
箱から
……出して
見た
覺えはないけれど、
寶石でも
取出すやうな
大切な、その
蝋燭の、
時よりも
早くぢり〱と
立つて
行くのを、
氣を
萎して、
見詰めるばかりで、かきもの
所の
沙汰ではなかつた。
戸をなぐりつける
雨の
中に、
風に
吹きまはされる
野分聲して、「
今晩――十時から
十一時までの
間に、
颶風の
中心が
東京を
通過するから、
皆さん、お
氣を
付けなさるやうにといふ、たゞ
今、
警官から
御注意がありました。
――御注意を
申します。」と、
夜警當番がすぐ
窓の
前を
觸れて
通つた。
さらぬだに、
地震で
引傾いでゐる
借屋である。
颶風の
中心は
魔の
通るより
氣味が
惡い。
――胸を
引緊め、
袖を
合せて、ゐすくむと、や、や、
次第に
大風は
暴れせまる。
……一しきり、
一しきり、たゞ、
辛き
息をつかせては、ウヽヽヽ、ヒユーとうなりを
立てる。
浮き
袋に
取付いた
難破船の
沖のやうに、
提灯一つをたよりにして、
暗闇にたゞよふうち、さあ、
時かれこれ、やがて
十二時を
過ぎたと
思ふと、
氣の
所爲か、その
中心が
通り
過ぎたやうに、がう〱と
戸障子をゆする
風がざツと
屋の
棟を
拂つて、やゝ
輕くなるやうに
思はれて、
突つ
伏したものも、
僅に
顏を
上げると
……何うだらう、
忽ち
幽怪なる
夜陰の
汽笛が
耳をゑぐつて
間ぢかに
聞えた。「あゝ、(ウウ)が
出ますよ。」と
家内があをい
顏をする。
――この
風に
――私は
返事も
出來なかつた。
カチ、カチ、カヽチ
カチ、カチ、カヽチ
雨にしづくの
拍子木が、
雲の
底なる
十四日の
月にうつるやうに、
袖の
黒さも
目に
浮かんで、
四五軒北なる
大銀杏の
下に
響いた。
――私は、
霜に
睡をさました
劍士のやうに、
付け
燒き
刃に
落ちついて
聞きすまして、「
大丈夫だ。
火が
近ければ、あの
音が
屹とみだれる。」
……カチカチカヽチ。「
靜かに
打つてゐるのでは
火事は
遠いよ。」「まあ、さうね。」といふ
言葉も、
果てないのに、「
中六」「
中六」と、ひしめきかはす
人々の
聲が、その、
銀杏の
下から
車輪の
如く
軋つて
來た。
續いて、「
中六が
火事ですよ。」と
呼んだのは、
再び
夜警の
聲である。やあ、
不可い。
中六と
言へば、
長い
梯子なら
屆くほどだ。
然も
風下、
眞下である。
私たちは
默つて
立つた。
青ざめた
女の
瞼も
決意に
紅に
潮しつゝ、「
戸を
開けないで
支度をしませう。」
地震以來、
解いた
事のない
帶だから、ぐいと
引しめるだけで
事は
足りる。「
度々で
濟みません。
――御免なさいましよ。」と、やつと
佛壇へ
納めたばかりの
位牌を、
内中で、
此ばかりは
金色に、キラリと
風呂敷に
包む
時、
毛布を
撥ねてむつくり
起上つた
――下宿を
燒かれた
避難者の
濱野君が、「
逃げると
極めたら
落着きませう。いま
火の
樣子を。」とがらりと
門口の
雨戸を
開けた。
可恐いもの
見たさで、
私もふツと
立つて、
框から
顏を
出すと、
雨と
風とが
横なぐりに
吹つける。
處へ
――靴音をチヤ〱と
刻んで、
銀杏の
方から
來なすつたのは、
町内の
白井氏で、おなじく
夜警の
當番で、「あゝもう
可うございます。
漏電ですが
消えました。
――軍隊の
方も、
大勢見えてゐますから
安心です。」「
何とも、ありがたう
存じます
――分けて
今晩は
御苦勞樣です
……後に
御加勢にまゐります。」おなじく
南どなりへ
知らせにおいでの、
白井氏のレインコートの
裾の、
身にからんで、
煽るのを、
濛々たる
雲の
月影に
見おくつた。
この
時も、
戸外はまだ
散々であつた。
木はたゞ
水底の
海松の
如くうねを
打ち、
梢が
窪んで、
波のやうに
吹亂れる。
屋根をはがれたトタン
板と、
屋根板が、がたん、ばり〱と、
競を
追つたり、
入りみだれたり、ぐる〱と、
踊り
燥ぐと、
石瓦こそ
飛ばないが、
狼藉とした
罐詰のあき
殼が、カラカランと、
水鷄が
鐵棒をひくやうに、
雨戸もたゝけば、
溝端を
突駛る。
溝に
浸つた
麥藁帽子が、
竹の
皮と
一所に、プンと
臭つて、
眞つ
黒になつて
撥上がる。
……もう、やけになつて、
鳴きしきる
蟲の
音を
合方に、
夜行の
百鬼が
跳梁跋扈の
光景で。
――この
中を、
折れて
飛んだ
青い
銀杏の
一枝が、ざぶり〱と
雨を
灌いで、
波状に
宙を
舞ふ
形は、
流言の
鬼の
憑ものがしたやうに、「
騷ぐな、おのれ
等――鎭まれ、
鎭まれ。」と
告つて
壓すやうであつた。
「
私も
薪雜棒を
持つて
出て、
亞鉛と
一番、
鎬を
削つて
戰はうかな。」と
喧嘩過ぎての
棒ちぎりで
擬勢を
示すと、「まあ、
可かつたわね、ありがたい。」と
嬉しいより、ありがたいのが、
斯うした
時の
眞實で。
「
消して
下すつた
兵隊さんを、こゝでも
拜みませう。」と、
女中と
一所に
折り
重なつて
門を
覗いた
家内に、「
怪我をしますよ。」と
叱られて
引込んだ。
誠にありがたがるくらゐでは
足りないのである。
火は、
亞鉛板が
吹つ
飛んで、
送電線に
引掛つてるのが、
風ですれて、
線の
外被を
切つたために
發したので。
警備隊から、
驚破と
駈つけた
兵員達は、
外套も
被なかつたのが
多いさうである。
危險を
冒して、あの
暴風雨の
中を、
電柱を
攀ぢて、
消しとめたのであると
聞いた。
――颶風の
過ぎる
警告のために、
一人駈けまはつた
警官も、
外套なしに
骨までぐしよ
濡れに
濡れ
通つて
――夜警の
小屋で、
餘りの
事に、「おやすみになるのに、お
着替がありますか。」といつて
聞くと、「
住居は
燒けました。
何もありません。
――休息に、
同僚のでも
借りられればですが、
大抵はこのまゝ
寢ます。」との
事だつたさうである。
辛勞が
察しらるゝ。
雨になやんで、
葉うらにすくむ
私たちは、
果報といつても
然るべきであらう。
曉方、
僅にとろりとしつゝ
目がさめた。
寢苦い
思ひの
息つぎに
朝戸を
出ると、あの
通り
暴れまはつたトタン
板も
屋根板も、
大地に、ひしとなつてへたばつて、
魍魎を
跳らした、ブリキ
罐、
瀬戸のかけらも
影を
散らした。
風は
冷く
爽に、
町一面に
吹きしいた
眞蒼な
銀杏の
葉が、そよ〱と
葉のへりを
優しくそよがせつゝ、
芬と、
樹の
秋の
薫を
立てる。
…… 早起きの
女中がざぶ〱、さら〱と、
早、その
木の
葉をはく。
……化けさうな
古箒も、
唯見ると
銀杏の
簪をさした
細腰の
風情がある。
――しばらく、
雨ながら
戸に
敷いたこの
青い
葉は、そのまゝにながめたし。「
晩まで
掃かないで。」と、
留めたかつた。が、
時節がらである。
落ち
葉を
掃かないのさへ
我儘らしいから、
腕を
組んでだまつて
視た。
裏の
小庭で、
雀と
一所に、
嬉しさうな
聲がする。
……昨夜、
戸外を
舞靜めた、それらしい、
銀杏の
折れ
枝が、
大屋根を
越したが、
一坪ばかりの
庭に、
瑠璃淡く
咲いて、もう
小さくなつた
朝顏の
色に
縋るやうに、たわゝに
掛つた
葉の
中に、
一粒、
銀杏の
實のついたのを
見つけたのである。「たべられるものか、
下卑なさんな。」「なぜ、
何うして?」「いちじくとはちがふ。いくら
食ひしん
坊でも、その
實は
黄色くならなくつては。」「へい。」と
目を
丸くして、かざした
所は、もち
手は
借家の
山の
神だ、が、
露もこぼるゝ。
枝に、
大慈の
楊柳の
俤があつた。
――ところで、
前段にいつた
通り、この
日はめづらしく
快晴した。
……通りの
花屋、
花政では、きかない
氣の
爺さんが、
捻鉢卷で、お
月見のすゝき、
紫苑、
女郎花も
取添へて、おいでなせえと、やつて
居た。
葉に
打つ
水もいさぎよい。
可し、この
樣子では、
歳時記どほり、
十五夜の
月はかゞやくであらう。
打ちつゞく
惡鬼ばらひ、
屋を
壓する
黒雲をぬぐつて、
景氣なほしに「
明月」も、しかし
沙汰過ぎるから、せめて「
良夜」とでも
題して、
小篇を、と
思ふうちに
……四五人のお
客があつた。いづれも
厚情、
懇切のお
見舞である。
打ち
寄れば
言ふ
事よ。
今度の
大災害につけては、
先んじて
見舞はねばならない、
燒け
殘りの
家の
無事な
方が
後になつて
――類燒をされた、
何とも
申しやうのない
方たちから、
先手を
打つて
見舞はれる。
壁の
破れも、
防がねばならず、
雨漏りも
留めたし、
……その
何よりも、
火をまもるのが、
町内の
義理としても、
大切で、
煙草盆一つにも、
一人はついて
居なければならないやうな
次第であるため、ひつ
込みじあんに
居すくまつて、
小さくなつてゐるからである。
早く、この
十日ごろにも、
連日の
臆病づかれで、
寢るともなしにころがつてゐると、「
鏡さんはゐるかい。
――何は
……ゐなさるかい。」と
取次ぎ
……といふほどの
奧はない。
出合はせた
女中に、
聞きなれない、かう
少し
掠れたが、よく
通る
底力のある、そして
親しい
聲で
音づれた
人がある。「あ、
長さん。」
私は
心づいて
飛び
出した。はたして
松本長であつた。
この
能役者は、
木曾の
中津川に
避暑中だつたが、
猿樂町の
住居はもとより、
寶生の
舞臺をはじめ、
芝の
琴平町に、
意氣な
稽古所の
二階屋があつたが、それもこれも
皆灰燼して、
留守の
細君――(
評判の
賢婦人だから
厚禮して)
――御新造が
子供たちを
連れて
辛うじて
火の
中をのがれたばかり、
何にもない。
歴乎とした
役者が、ゴム
底の
足袋に
卷きゲートル、ゆかたの
尻ばしよりで、
手拭を
首にまいてやつて
來た。「いや、えらい
事だつたね。
――今日も
燒けあとを
通つたがね、
學校と
病院に
火がかゝつたのに
包まれて、
駿河臺の、あの
崖を
攀ぢ
上つて
逃げたさうだが、よく、あの
崖が
上られたものだと
思ふよ。ぞつとしながら、つく〲
見たがね、
上がらうたつて
上がれさうな
所ぢやない。
女の
腕に
大勢の
小兒をつれてゐるんだから
――いづれ
人さ、
誰かが
手を
取り、
肩をひいてくれたんだらうが、
私は
神佛のおかげだと
思つて
難有がつてゐるんだよ。
――あゝ、
裝束かい、
皆な
灰さ
――面だけは
近所のお
弟子が
駈けつけて、
殘らずたすけた。
百幾つといふんだが、これで
寶生流の
面目は
立ちます。
裝束は、いづれ
年がたてば
新しくなるんだから。」と
蜀江の
錦、
呉漢の
綾、
足利絹もものともしないで、「よそぢや、この
時節、
一本お
燗でもないからね、ビールさ。
久しぶりでいゝ
心持だ。」と
熱燗を
手酌で
傾けて、「
親類うちで
一軒でも
燒けなかつたのがお
手柄だ。」といつて、うれしさうな
顏をした。うらやましいと
言はないまでも、
結構だとでもいふことか、
手柄だといつて
讚めてくれた。
私は
胸がせまつた。と
同時に、
一藝に
達した、いや
――從兄弟だからグツと
割びく
――たづさはるものの
意氣を
感じた。
神田兒だ。
彼は
生拔きの
江戸兒である。
その
日、はじめて
店をあけた
通りの
地久庵の
蒸籠をつる〱と
平げて、「やつと
蕎麥にありついた。」と、うまさうに、
大胡坐を
掻いて、また
飮んだ。
印半纏一枚に
燒け
出されて、いさゝかもめげないで、
自若として
胸をたゝいて
居るのに、なほ
万ちやんがある。
久保田さんは、まる
燒けのしかも
二度目だ。さすがに
淺草の
兄さんである。
つい、この
間も、
水上さんの
元祿長屋、いや
邸(
註、
建つて
三百年といふ
古家の
一つがこれで、もう
一つが
三光社前の
一棟で、いづれも
地震にびくともしなかつた
下六番町の
名物である。)へ
泊りに
來てゐて、
寢ころんで、
誰かの
本を
讀んでゐた
雅量は、
推服に
値する。
ついて
話しがある。(
猿どのの
夜寒訪ひゆく
兎かな)で、
水上さんも、
私も、
場所はちがふが、
兩方とも
交代夜番の
せこに
出てゐる。
町の
角一つへだてつゝ、「いや、
御同役いかゞでござるな。」と
互に
訪ひつ
訪はれつする。
私があけ
番の
時、
宵のうたゝねから
覺めて
辻へ
出ると、こゝにつめてゐた
當夜の
御番が「
先刻、あなたのとこへお
客がありましてね、
門をのぞきなさるから、あゝ
泉をおたづねですかと、
番所から
聲を
掛けますと、いや
用ではありません
――番だといふから、ちよつと
見に
來ました、といつてお
歸りになりました。
戸をあけたまゝで、お
宅ぢやあ
皆さん、お
寢みのやうでした。」との
事である。
「どんな
人です。」と
聞くと、「さあ、はつきりは
分りませんが、
大きな
眼鏡を
掛けておいででした。」あゝ、
水上さんのとこへ、
今夜も
泊りに
來た
人だらう、
万ちやんだな、と
私はさう
思つた。
久保田さんは、
大きな
眼鏡を
掛けてゐる。
――所がさうでない。
來たのは
瀧君であつた。
評判のあの
目が
光つたと
見える。これも
讚稱にあたひする。
――さてこの
日、
十五夜の
當日も、
前後してお
客が
歸ると、もうそちこち
晩方であつた。
例年だと、その
薄を、
高樓――もちとをかしいが、この
家で
二階だから
高いにはちがひない。その
月の
出の
正面にかざつて、もと
手のかゝらぬお
團子だけは
堆く、さあ、
成金、
小判を
積んで
較べて
見ろと、
飾るのだけれど、ふすまは
外れる。
障子の
小間はびり〱と
皆破れる。
雜と
掃き
出したばかりで、
煤もほこりも
其のまゝで、まだ
雨戸を
開けないで
置くくらゐだから、
下階の
出窓下、すゝけた
簾ごしに
供へよう。お
月樣、おさびしうございませうがと、
飾る。
……その
小さな
臺を
取りに、
砂で
氣味の
惡い
階子段を
上がると、
……プンとにほつた。
焦げるやうなにほひである。ハツと
思ふと、かう
氣のせゐか、
立てこめた
中に
煙が
立つ。
私はバタ〱と
飛びおりた。「ちよつと
來て
見ておくれ、
焦げくさいよ。」
家内が
血相して
駈けあがつた。「
漏電ぢやないか
知ら。」
――一日の
地震以來、たばこ
一服、
火の
氣のない
二階である。「
疊をあげませう。
濱野さん
……御近所の
方、おとなりさん。」「
騷ぐなよ。」とはいつたけれども、
私も
胸がドキ〱して、
壁に
頬を
押しつけたり、
疊を
撫でたり、だらしはないが、
火の
氣を
考へ、
考へつゝ、
雨戸を
繰つて、
衝と
裏窓をあけると、
裏手の
某邸の
廣い
地尻から、ドス
黒いけむりが
渦を
卷いて、もう〱と
立ちのぼる。「
湯どのだ、
正體は
見屆けた、あの
煙だ。」といふと、
濱野さんが
鼻を
出して、
嗅いで
見て、「いえ、あのにほひは
石炭です。
一つ
嗅いで
來ませう。」と、いふことも
慌てながら
戸外へ
飛び
出す。
――近所の
人たちも、
二三人、
念のため、スヰツチを
切つて
置いて、
疊を
上げた、が
何事もない。「
御安心なさいまし、
大丈夫でせう。」といふ
所へ、
濱野さんが、
下駄を
鳴して
飛んで
戻つて、「づか〱
庭から
入りますとね、それ、あの
爺さん。」といふ、
某邸の
代理に
夜番に
出て、ゐねむりをしい〱、むかし
道中をしたといふ
東海道の
里程を、
大津からはじめて、
幾里何町と
五十三次、
徒歩で
饒舌る。
……安政の
地震の
時は、おふくろの
腹にゐたといふ
爺さんが、「
風呂を
焚いてゐましてね、
何か、
嗅ぐと
矢つ
張り
石炭でしたが、
何か、よくきくと、たきつけに
古新聞と
塵埃を
燃したさうです。そのにほひが
籠つたんですよ。
大丈夫です。
――爺さんにいひますとね、(
氣の
毒でがんしたなう。)といつてゐました。」
箱根で
煙草をのんだらうと、
笑ひですんだから
好いものの、
薄に
月は
澄ながら、
胸の
動悸は
靜まらない。あいにくとまた
停電で、
蝋燭のあかりを
借りつゝ、
燈と
共に
手がふるふ。
……なか〱に
稼ぐ
所ではないから、いきつぎに
表へ
出て、
近所の
方に、たゞ
今の
禮を
立話しでして
居ると、
人どよみを
哄とつくつて、ばら〱
往來がなだれを
打つ。
小兒はさけぶ。
犬はほえる。
何だ。
何だ。
地震か
火事か、と
騷ぐと、
馬だ、
馬だ。
何だ、
馬だ。
主のない
馬だ。はなれ
馬か、そりや
大變と、
屈竟なのまで、
軒下へパツと
退いた。
放れ
馬には
相違ない。
引手も
馬方もない
畜生が、あの
大地震にも
縮まない、
長い
面して、のそり〱と、
大八車のしたゝかな
奴を、たそがれの
塀の
片暗夜に、
人もなげに
曳いて
伸して
來る。
重荷に
小づけとはこの
事だ。その
癖、
車は
空である。
が、
嘘か
眞か、
本所の、あの
被服廠では、つむじ
風の
火の
裡に、
荷車を
曳いた
馬が、
車ながら
炎となつて、
空をきり〱と
𢌞つたと
聞けば、あゝ、その
馬の
幽靈が、
車の
亡魂とともに、フト
迷つて
顯はれたかと、
見るにもの
凄いまで、この
騷ぎに
持ち
出した、
軒々の
提灯の
影に
映つたのであつた。
かういふ
時だ。
在郷軍人が、シヤツ
一枚で、
見事に
轡を
引留めた。が、この
大きなものを、せまい
町内、
何處へつなぐ
所もない。
御免だよ、
誰もこれを
預からない。そのはずで。
……然うかといつて、どこへ
戻す
所もないのである。
少しでも
廣い、
中六へでも
持ち
出すかと、
曳き
出すと、
人をおどろかしたにも
似ない、おとなしい
馬で、
荷車の
方が
暴れながら、
四角を
東へ
行く。
…… 醉つ
拂つたか、
寢込んだか、
馬方め、
馬鹿にしやがると、
異説、
紛々たる
所へ、
提灯片手に
息せいて、
馬の
行つた
方から
飛び
出しながら「
皆さん、
晝すぎに、
見付けの
米屋へ
來た
馬です。あの
馬の
面に
見覺えがあります。これから
知らせに
行きます。」と、
商家の
中僧さんらしいのが、
馬士に
覺え、とも
言はないで、
呼ばはりながら
北へ
行く。
町内一ぱいのえらい
人出だ、
何につけても
騷々しい。
かう
何うも、
番ごと、どしんと、
駭ろかされて、
一々びく〱して
居たんでは
行り
切れない。さあ、もつて
來い、
何でも、と
向う
顱卷をした
所で、
馬の
前へは
立たれはしない。
夜ふけて、ひとり
澄む
月も、
忽ち
暗くなりはしないだらうか、
眞赤になりはしないかと、おなじ
不安に
夜を
過ごした。
その
翌日――十六夜にも、また
晩方強震があつた
――おびえながら、この
記をつゞる。
時に、こよひの
月は、
雨空に
道行きをするやうなのではない。かう〲しく、そして、やさしく
照つて、
折りしもあれ
風一しきり、
無慙にもはかなくなつた
幾萬の
人たちの、
燒けし
黒髮かと、
散る
柳、
焦げし
心臟かと、
落つる
木の
葉の、
宙にさまよふと
見ゆるのを、
撫で
慰さむるやうに、
薄霧の
袖の
光りを
長く
敷いた。
大正十二年十月